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 高松から東へ十五キロ。波静かな志度湾に面したまち、桐の産地としては、岩手の南部桐、福島の会津桐、新潟の越後桐などがよく知られています。
 しかし、近在に良質の桐の産地がない志度が、なぜ、桐下駄の日本一の産地となったのでしょうか。

 志度で桐下駄産業が発展したのは、ある人物によるところが大きい。
その人物とは、「砂山房太郎」氏。
 明治22年に、志度にほど近い東かがわ市大内に生まれ、十四歳から高松の下駄屋に奉公し製造技術を習得し明治40年3月、志度新町で製造を始めたのが、産地としての起こりです。
 当時は、書生下駄、日和下駄が主で、志度、高松あたりの近隣相手に小規模な商いを行なっていましたが、第一次世界大戦後、販路を大阪に拡大したが、技術的にも劣り形が田舎くさいということで、容易に契約が取れず、砂山氏を中心にさまざまな製品改良に努めた結果、大正初期から生産が急増し、さらに、昭和5年からは機械を導入し、生産性を高める為に、砂山氏がいち早く機械化を進めました。

 このように志度で桐下駄が産業として根付いたのは、砂山氏の功績が大であるが、その他にもいくつかの理由があります。
 それは、地元の豊富な労働力です。このあたりは漁業と農業が主な産業で、明治、大正のころは、家業を継げぬ次男、三男は関西方面に奉公に上がることが多くあり、そんな若者たちが、地元で働けるとあって、砂山氏に下に大勢弟子いりしてきたことがあげられます。
 また、桐材は約1年間天日で乾燥させる必要があり、晴天の多いこの瀬戸内の気候が桐下駄作りに適していたことも功を奏しました。
 このようにさまざまな要因により、志度は、桐下駄産地の一大産地として発展していきました。




 戦後の物資の不足による空前の下駄ブームも追い風となって、昭和30年ごろに最盛期を迎えました。
 当時の製造業者は約30、作業員約200人(内独立職人約30人)月産20万足、年商ニ億円に達したと推定されますが、その後ケミカルサンダルが低価格品として普及、道路もアスファルト化が進み、生活様式も洋風化が一般化し、日用品、実用品としての下駄は致命的な打撃を受けました。

 こうした中で、高級品としての桐下駄は、日用品としての雑木下駄ほどの打撃は受けなかったものの、長期的には需要の減少は避けられず、生産性は大きく落ち込みました。
 昭和四十年ごろから廃業が相次ぎ、創業者の砂山家ですら、不況と後継者不足から店をたたんだといいます。
 現在志度には、当社を含む2軒が残るのみとなりました。
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