
下駄の歴史は、稲作とともに始まったといっても過言ではありません。その理由の1つに、弥生時代後期の登呂遺跡から下駄状の木製品が出土していることがあげられます。
この下駄状の木製品は、田下駄と呼ばれ芦刈りや稲の穂摘みなど、湿田での農作業にもちいられました。
古墳時代になると大陸から下駄が出土しており、当時は権威の象徴として用いられました。
奈良時代、平安京では子ども用の下駄もあったことが出土品で知られています。
また、「東寺写経所解」には木沓(きぐつ)と木履(ぼくり)が併記されているが出土物には木を靴の形にくり抜いたものと、いわゆる今日の下駄の両方があることから、「ボクリ」と呼ばれていたことがわかります。
平安時代に入ると、遺物だけでなく、「枕草子」や「うつほ物語」などの文学作品のなかに「くれのあしだ」という言葉で下駄が呼ばれていたことが「和名抄」から見ることができます。
中世の絵巻物や近世の絵画をみると、水汲み、洗濯のとき、衣服の裾を汚さないために下駄をはいています。
江戸時代の中頃から工具が発達して家内工業がおこり、下駄屋が出現し、下駄が大衆化して歩行にもっぱら履かれるようになりました。
この頃から「ボクリ」や「アシダ」も下駄と呼ぶようになり丈の高い差歯下駄、元禄時代には桐の台や擦り減りにくい樫歯の下駄、塗り下駄、裂や革の鼻緒の下駄など、用途に応じて種類も多くなっていきます。
このころになると、時代時代の流行もかいま見え、日本人の美意識が感じられるようになりました。
明治維新となり欧米文化がもたらされ、服装界にも新風が導入され、洋風化がしだいに普及し、はきもの世界にも、やや変動が起こり始めましたが、一般の人々の服装の中心は和服だったため、需要はほとんど減りませんでした。
日本の下駄は古来から仕事の能率を高めるために作られて来たものが多いのですが、これらの下駄は、今でも使われていますが、ふだんに下駄を履くことは減りつつある為、下駄産業は、需要の伸びなやみや後継者不足のため苦労していることに変わりはありません。
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